“The legs of a table”, workshop as the opening party


みんなで大きなパネルを支えテーブルのような状態を持続させる。その上で、新たまねぎを切り、パスタを茹で菜の花と一緒に炒める。ファラフェルをトルティーヤでラップする。トマトと豆腐をカプレーゼ風に盛り付ける。互いに注ぎ合うビール。箱ワインを二人で協力してグラスにつぐ。ある者が作業をする時に、他の者が作業台となるパネルを支える。また疲れた者が休むときに、他の者が代わりに負荷を請け負う。チームスポーツのように、互いに要求し合い様々な言葉を掛け合う。崩れそうなバランスを保つため支える位置をシフトする。アルコールに浸りつつ、徐々に気なる二の腕にかかる負荷。その負荷によって吐露されるいくつかの言葉。なぜか片側だけが持ち上がっていくパネル、水平を保つよう促す行為や指示。ある者は下にもぐり、体全体を使って支える。パネルの下の支える者たちの集まり。ビーガン食の話の輪。筋トレとコンディション調整について朗々と話す者。初めて出会う者同士が負荷を介して話し始める場面。傾むいたパネルによる負荷に黙って耐える者たち。

刻々と変化する状況の中で、その時々で立ち上がった様々な状態それぞれは一体なんだったのだろうか。プロジェクト終了後には様々な言葉が飛び交った。そこかしこで散見できた互いに助け合う状況、あるいは、二の腕や腰、太もも裏や膝にかかる負荷について。隣の人と言葉を交わさざる負えない状況、あるいは逆に、コミュニケーションを促進する潤滑油的な状況について。我々の住む社会の縮小版ではないかという指摘、および民主主義や義務教育の遺産について。誰一人否定的なことを言わない状況と、それが、日本的あるいは東アジア的な共同体と換言できるのかについて。そして非切りなしに聞こえるトイレの流水音について。

また、協調という状態がだからこそ、その中にいる人々は協調している/させられているという状態を簡単に見失っているのではないか。そしてそここそが重要ではないか。というある参加者の指摘。確かにそうなのかもしれない。そして、我々はしばしばいくつかの要素だけで、あるいはその組み合わせによって物事を解釈しがちである。つまり、表面的な思考へと流れやすいということだろう。もちろん、それ自体を否定することはできないのだが、山を登っている最中は、山の全景が見えないように。何かが進行中の状態で獲得した解釈は、だからこそ見えなくなるもの、こぼれ落ちているものを捉えることが難しい。何かに没入している時こそ、その時点での自身の認識を疑うべきではないか。そここそに注意を払わなくてはならないのではないか。彼女の指摘はそのようなことを考えるきっかけになったと思う。

そう考えると、パネルを協力して支えあっていた行為のある一面には、協調するという圧力が発生したのかもしれない。そしてその側面が、我々の社会そのものを示唆していたと捉えることもできる。作られる雰囲気に、長いものに巻かれてみること。そのうえでその状態を疑視めてみること。そうすることで、僕らが属している社会自体の把握、そこで生起されている問題を考察するためのある一定の現実感を獲得できる/できていたのかもしれない。民主主義や義務教育などの言葉が飛び交っていたことを思い出すと、あの時何となくスッと腑に落ちたような感じはまさにこのようなことだったのだろう。

“The legs of a table”, workshop as the opening party

Time and date : 18:00 – 21:00, Saturday 21st April 2012
Place : Antenna Media (Map)
Admission : 500yen (with a drink)
Organized by Antenna Media

「テーブルの脚」オープニングパーティーとなるワークショップ

日 時:2012年4月21日(土)18:00 – 21:00
場 所:Antenna Media(地図
入場料:¥500(ドリンク付き)
主 催:Antenna Media