“The point and the handle of a brush”, posters as exercise
京都での一夜でも、そのような組織における一面を垣間見ることになった。違っていたのは、そのエグさがエグ味として感じられたこと。そしてそれがいつの間にか忘れてしまうほど、その雰囲気に、目の前のタスクに没入してしまっていたこと。そして後からジワジワとまたエグさが戻ってくること。そのようなことである。
当プロジェクトは、次のように進行した。まず3人〜4人のグループを5つほどつくった。そして、それぞれで一枚のポスターを作成した。訴求したいことはそれぞれで考え、作成の仕方はグループの中の人間を使いさえすれば何でもありである。そして次のような状態が生まれた。筆を持たせた人の手を操作しながら描く。足の指に筆を挟んだ人を両側から担ぎ上げ、その体を一本の筆に見立てて描く。口に筆を咥えた人の頭を掴んで描く。人の手に絵の具を塗りたくり、その手を動かして描く。目隠しをした筆(他者)に指示を与え描く。それぞれが、それぞれに脳を回転させアイデアを出していく。時には、傍らで行われる行為からヒントを得たり、同調したりなど。
いずれにせよ、その場の熱気は右肩上がりに上昇した。そこで思ったのは、グループ(組織)の目的(大義名分と言い換えることができるかもしれない)が、表出するエグさを一掃する、あるいは感じなくさせているということ。つまりそれは、表出したエグさが、普段気にも留めない人間社会におけるある種の気持ち悪さを感じさせるためのある一定の現実感を見るものに与えていたということではないだろうか。他方で、少なくともそこに参加していた人たちの大半は意思をもって交渉し合意し遂行しているようにも感じられた。また直接そうしたことを言葉を口にしていた者もいた。それは例えば、多くの人が能動的に考え、自発的に雰囲気を空気をそして枠組みを変えていたと言えるかもしれないし、またそれは、協調や同調が良い意味で働いていたことを意味しているだろう。
しかしながら、こうした状況はどのようなことなのだろうか。例えば、括弧付きの「アート」だから「アート・プロジェクト」「アート作品」だから許容し成立していると言えるのだろうか。度々指摘されたそうした問いが、ここで頭の中をグルグル駆けめぐる。思うのは、たとえ「アート」という認識がその状態に蔓延っていたとしても、「アート」だから成立する。そうでないから成立しないという分断はそこには存在し得ないということだ。どうだからとかではなく、つまりそれは、分離し難い紐帯がそこにあるということだ。さらに言い換えれば、例えばアートにおけるアニメーション作品を見て、いわゆる「アニメーション」というジャンルでの作品を引き合いにだし、そこに優劣をつけることの愚かさとあまり変わらないのではないかと考える。単にシステムの違いが、そうした状況(作品)の強調や減少を生んでいるに過ぎないだけで、どちらかがどちらかに劣っていることは決してない。むしろ大事なのは、接する環境やシステムの違いが思考の違いを生んでいること。何をどのように考えることができるのかということ。そのようなことだと考えている。
Time and date : 18:00 – 21:00, Saturday 26th May 2012
Place : Antenna Media (Map)
Admission : 500yen
Organized by Antenna Media
*Note that you don’t want to come with your favorite clothes which might get dirty.
「筆柄と筆先」エクササイズとなるポスター
日 時:2012年5月26日(土)18:00 – 21:00
場 所:Antenna Media(地図)
入場料:¥500
主 催:Antenna Media
※汚れてもよい格好がベストです。